2021年1月1日、中村憲剛というサッカー選手が引退しました。
彼が18年間心血を注ぎ続けた川崎フロンターレのサポーター以外からも愛された偉大な選手は、37歳まで一度も優勝することがない無冠でしたが、そこからの3年と数ヶ月で5つものタイトルを獲得しピッチを去っていきました。
僕は一人のフロンターレサポーターとして、またサッカーファンとして中村憲剛のプレーを間近で見ることができ、そして運良くも2人の息子にもその機会を与えることができて本当に幸せでした。
彼から学んだ多くのことは、しっかりと自分自身と子供たちともずっと心に残しておきたいものです。
中村憲剛というサッカー選手
1980年10月31日生まれ。
決して恵まれた体格とはいえない華奢な体、高校や中央大学では無名のプレイヤーで、大卒の練習生として当時J2だった川崎フロンターレへ入団。
その後、チーム内で頭角を現すと、強力なブラジル人助っ人FWジュニーニョらとともに攻撃的なサッカーで一躍スターへ。チームもJリーグで2位になり、自身も日本代表へ選出されるなど一気に中村憲剛は階段を駆け上がっていきます。
30歳になる2010年までに準優勝が5回、2位でシーズンを終えることが続いた最初のうちは「そのうち獲れる」だろうと思っていたと本人は振り返っていますが、ここから中村憲剛とタイトル獲得への因縁は始まっていきます。
タイトルへの道
2010年のワールドカップ、日本代表の一員としてベスト16まで戦った中村憲剛へはその年末に海外移籍の話もありましたが、「川崎ではまだ何もタイトルをもたらしていないから」と悩みに悩んだ末にフロンターレへの残留を決めます。
その後もチームは新しく就任した風間八宏監督とともにそれまでとはまた違うスタイルの攻撃的なサッカーを展開していくも、どうしても届かないタイトル。
20代で引退することも珍しくないサッカー選手において、2016年にはJリーグ史上最年長で年間MVPを獲得するなど選手個人としては歳を重ねても高みに登り続けていきました。
しかし、2017年1月1日の天皇杯決勝で鹿島アントラーズに敗れると、いよいよ中村憲剛は「俺がいるから勝てない」と自分へその矛先を向けキャプテンを後輩へ託します。
その後の2017年シーズンはまたカップ戦で準優勝になるものの、最後のリーグ戦では見事に逆転で優勝。悲願という言葉がこれ以上相応しい初優勝もそうあるものではありませんでした。
そして1度その獲り方を知ってからは、それまでの苦労が嘘のように2018年から2020年まで毎年のように優勝し、最終的には2021年1月1日におこなわれた天皇杯まで含めて5つものタイトルを獲得しました。
37歳まで無冠だった選手が40歳で引退する時に5度の優勝を経験していたとは、おそらく本人含め誰も予想できたことではなかったでしょう。もちろん中村憲剛一人だけでなし得たものではないですが、彼が果たした役割や貢献はものすごく大きなものであることは疑う余地はありません。
ここからは、僕が考える彼のピッチ外での尊敬すべき3点、これは自分の子供たちにも伝えていきたいという点について書いていきます。
中村憲剛が引退セレモニーで語った「自分にベクトルを向ける」ということ
まずはこれですね。
2020年12月21日に等々力競技場でおこなわれた引退セレモニーで中村憲剛が語った言葉、以下はその一節ですがとても素晴らしい内容です。
「僕自身は小さい頃、小学生の時は本当に小さくて、高校に入った時も小さくて、今も体は華奢ですし、体は強くないですけれども、40までプレーすることができました。何が言いたいかっていうと、体の小ささや身体能力の低さはハンデじゃないということです。おそらく小学生、中学生、高校生で悩んでる子はいっぱいいると思います。けど、そうじゃないと、僕のキャリアが言っています。子どもたち1人1人の皆に可能性があります。それに自ら蓋をして欲しくないし、指導者の人たちも『ただ小さいから使わない』『足が遅いから使わない』という目線で見ないで欲しいなと心から願っています。逆にそのハンデをチャンスだと思ってください。周りの環境やチームメイトは一切関係ないです。全部自分にベクトルを向けてください。そうすれば、その気持ちを持って1日1日頑張れば、必ず道は拓けます。そして、周りが助けてくれます。」
この「全部自分にベクトルを向けてください」これは響きますね。周りの環境やチームメイトのせいにしないで、全て自分を主語にして考えるということです。これはスポーツに限らず、とても大切な姿勢です。他責ではなく自責、これは成功する人の必須な考え方のように思います。
この自分にベクトルを向けるというのは、これまでの中村憲剛のインタビューやその姿勢を見ていると実感を持ってそれを体現していることを理解できますが、この彼の原点となっているのは父親の言葉のようです。
僕が小学生のとき、サッカーの試合で負けると、一緒にお風呂に入りながら説教されました。湯船の中で、「責任の所在を自分に向けろ。負けたらお前の責任だ」と。送り迎えの車の中でも「なぜ、あそこでシュートを打たないんだ」なんて。
こちらの記事にある、「責任の所在を自分に向けろ」と小学校のころに父親に言われた言葉をそのまま大切にしていたことが分かります。
中村憲剛のお父さんは、上記の記事以外にも色んなところで出ていますが、広告代理店のマッキャンエリクソンで営業部長をされていた方ですね。
ビジネスマンとしてもかなり優秀であったことが分かります。きっと中村憲剛少年はお父さんから様々な大事な姿勢を教わったのだろうと想像できますね。
松井秀喜も父親から「人間万事塞翁が馬」という言葉を教わったと語っていますし、考え方や姿勢といったところは父親の存在がやはり大きいということですね。
自分も大事なことをいっぱい息子たちへ伝えていきたいと思います。
類まれな言語化能力
他の偉大なサッカー選手たちと比べ、ピッチ外で中村憲剛が非常に優れているのが「言語化能力」です。
これは本当にすごいです。
インタビューで語る言葉はもちろんですが、(おそらく)ご自身で書いていると思われるブログは本当に素晴らしい言語化能力が発揮されています。
どの記事も本当に関心する文章なので読んでほしいです。
また、僕がとても印象に残っているのは、2018年8月の試合後の中村憲剛のコメントです。1位を独走するサンフレッチェ広島を追いかける2位川崎フロンターレの首位攻防戦。結果は1-2で川崎が勝ちましたが、ここの勝ちに向かう戦術の分析、しかもこれをピッチ上で判断して実践していること、そしてそれを的確に言葉にして語れるということに驚きました。
── 試合を振り返って
広島のプレスは、鳥栖とは同じ4-4-2システムでも全然違う。2トップに、中盤の一人が出てくるので、後ろ3枚で回しても同数になって、息ができない状態になる。それなら自分がヘルプにいったほうがいい。自分が落ちたら、相手のボランチがくっついてくるが、そうするとバイタルが空く。そこでユウ(小林悠)にも何度かボールが入ったし、自分が落ちて5枚まで回すと、相手の届かないところが出てきた。向こうのボランチも、自分についていくことを言われていたと思う。後半は届かないところを作って、押し込む。そっちのほうが手ごたえがあった。相手も2トップともう一人では届かなくなってきた。自分が落ちてそれにボランチがついていくとアベちゃん(阿部浩之)とアキ(家長昭博)が背中をつけた。そこでサイドの二人を中に入れさせて、エウソン(エウシーニョ)とノボリ(登里享平)に高い位置を取らせる。それで2点取ったのは偶然じゃないと思う。相手はエウソンの攻撃が気になるから、柏選手を外して稲垣選手にして、吉野選手を入れて自分につかせた。これで相手のカウンターが消えた。経験値を増やしながら、今日は勝てた。負けたら終わりだった。だから次が大事になる。これからも勝点3を積み上げないと、意味がない。
引用元:ゲーム記録・速報 – 2018/J1リーグ 第23節 vs.サンフレッチェ広島 | KAWASAKI FRONTALE
戦術を考え実践できるプレイヤーは多くいると思いますが、ここまでしっかりと言語化できる選手はそう多くないと思います。本当に中村憲剛、末恐ろしいと思いました。
実際、この中村憲剛のコメント内に1位を走る広島の攻略法をバラされてしまったからか、その後広島は勝てずに苦しみ、結果的に川崎が優勝したのです。恐ろしい。
また、シーズンオフにはDAZNの海外サッカー中継などでゲスト解説していましたが、そこで語られる言葉も本当に分かりやすく的確で、Twitter上でも絶賛されていました。
引退後は、基本的に指導者への道を進むと思いますが、解説業も含め引く手あまたですね。
周りへの感謝・リスペクト
最後に、やはり中村憲剛といえばその愛されるキャラクターです。
僕は川崎以外のサポーターの友人もたくさんいますが、中村憲剛のことだけは悪く言う人に会ったことはないです。
その愛されるキャラクターは、様々な要因があると思いますが、やはり彼の普段からの周りへの感謝・リスペクトが大きいのではないかと思います。
ここまでで挙げたブログやインタビューなどを読んでも分かりますが、本当に周りの感謝・リスペクトに溢れています。そうした自然に醸し出すものを周りも感じ、彼を愛するようになるのではないかと思います。
まさに「与える者は与えられる」。これは言葉にすると簡単ですが、実際に行動に移すのはとても難しいことです。
おそらくこれらも「自分にベクトルを向ける」の他責ではなく自責の姿勢からきているのではないかと思います。
まとめ
中村憲剛選手、本当に現役生活お疲れ様でした。
(もう「選手」と呼ぶことないと思うと寂しい)
その華麗なプレーはもちろん、ピッチ外でも本当に尊敬する選手でしたし、こんなに身近に感じられる偉大なヒーローはもう今後自分の人生において現れないのではないかと思っています。
そんなプレイヤーを何度もスタジアムで観れたことを感謝しつつ、彼から学んだことは僕もしっかりと子供たちへ伝えていきたいなと思っています。
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