【高度資本主義社会と考え方のシステム】『ダンスダンスダンス』/村上春樹

『ダンスダンスダンス』/村上春樹

村上春樹の小説が好きです。

僕が大学生のときに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み、そこから村上春樹の小説にどっぷりとハマってしまいました。これを村上春樹風にいうと、「宿命的に好きになってしまった」というところでしょうか。

その後、彼の作品は古いものを中心に、何年かごとに読み返しています。だいたい読もうと思う時期は同じで、「ちょっと精神的に病んできたとき」なんです。

僕にとって村上春樹の小説はカタルシスです。彼の世界に浸ることによって、僕の現実世界での闇が明るくなっていく感じがします。

今回、もう何度目か分かりませんが『ダンスダンスダンス』を読み返したわけですが、仕事関係やその他の色々で少々疲れていました。また、気付けば村上春樹に限らず小説も長い間読んでいませんでした。2017年9月、いちど一息いれるにはちょうど良いタイミングだと思い、この『ダンスダンスダンス』を手に取りました。


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『ダンスダンスダンス』

三部作の続編

村上春樹の『ダンスダンスダンス』は、1988年10月に刊行された長編小説で、上下巻セットです。『風の歌を聴け(1979年)』『1973年のピンボール(1980年)』『羊をめぐる冒険(1982年)』と続く初期三部作の続編で、主人公は同じ「僕」です。

三部作の続編といっても、その間には『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(1985年)』『ノルウェイの森(1987年)』という2つの長編小説をはさんでいます。『羊をめぐる冒険』からは実に6年も経っているわけですね。

ハワイ

『ダンスダンスダンス』には、東京の渋谷や赤坂を中心に、いるかホテルのある札幌、バカンスで訪れるハワイ、アメの家がある箱根などが舞台となっています。

今回僕が数ある村上春樹小説の中でも、この『ダンスダンスダンス』を選んだ理由が実はハワイにあります。最近、仕事でハワイに関わる可能性が出てきました。僕は、ハワイとかのビーチリゾート系には全然興味がなく、特に個人的にハワイに行ってみたいとかも思ったことがありませんでした・・・。とはいえそうも言っていられないので、「自分の中でハワイに愛着を持てるものは何か?」ということで考えたのがこの『ダンスダンスダンス』だったわけです。

その考えは大成功で、読み終わって僕は実際にとてもハワイに行きたくなりました。

「ハワイ、悪くない」

そこで一週間のんびりして、たっぷりと泳いで、ピナ・コラーダを飲んで帰ってくる。疲れもとれている。ハッピーな気持ちにもなっている。日焼けもしている。そしてあらためて視点を変えて物事を見直し、考え直してみる。そしてたぶんこう思う、そうだ、こういう考え方があったんだ、と。悪くない。

『ダンスダンスダンス(下)』P40

なお、ピナ・コラーダというのは↓のようなお酒で、ラムをベースに、ココナッツミルクとパイナップルジュースを入れるようです。その響きだけでハワイ。普段ビーチリゾートにたいして興味を持たない僕でも、これはハワイの砂浜で飲んでみたいです。
Happy Hour: Piña Colada

まあとにかく、小説の中で「休憩時間」と呼ばれているようなものに惹かれているのは間違いありません。

「文化的雪かき」と高度資本主義社会

「文化的雪かき」

これはこの小説の主人公である「僕」が自分の仕事を指して言う表現です。

それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ページ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。

僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

『ダンスダンスダンス(上)』P29

これは本当に強烈な表現だと思いますし、「雪かき」とはまた上手いたとえですよね。

そしてその後のほうで、こういうくだりもあります。

「君は何か書く仕事をしているそうだな」と牧村拓は言った。

「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。「穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。雪かきと同じです。文化的雪かき」

「雪かき」と牧村拓は言った。そしてわきに置いたゴルフ・クラブにちらりと目をやった。

「面白い表現だ」

(中略)

「その雪かきという表現は君が考えたのか?」

「そうですね、そうだと思う」と僕は言った。

「俺がどこかで使っていいかな?その『雪かき』っていうやつ。面白い表現だ。文化的雪かき」

『ダンスダンスダンス(上)』P360

と冒険作家である牧村拓(ユキの父親)に自分の表現として使わせてほしいと言われるほどです。

思えば、こうした「文化的雪かき」のような「仕事」は当時のバブル期の日本はもちろん、現代にもあらゆるところに存在しています。好むと好まざるとにかかわらず。そして、その「雪かき」のようなものこそが、高度資本主義社会を支えているものだと、この小説では指摘されています。

『ダンスダンスダンス』ではこの高度資本主義社会についての記述も多く出てきます。

我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

『ダンスダンスダンス(上)』P41

もしみんなが無球というものを一切生み出さなくなったら、大恐慌が起こって世界の経済は無茶苦茶になってしまうだろう。

『ダンスダンスダンス(上)』P52

それが高度資本主義というものだ。最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得ることになる。誰が悪いというのではない。資本投下というのはそういうものを内包した好意なのだ。資本投下をするものはその投下額に応じた有効性を要求する。中古車を買う人間がタイヤを蹴ったりエンジンを調べてみたりするように、一千億の資本を投下するものはその投下の有効性を細かく検討するし、ある場合には操作もする。その世界ではフェアネスなんて何の意味も持たない。そんなことをいちいち考えるには投下資本の額が大きすぎるのだ。

『ダンスダンスダンス(上)』P112

前述の牧村拓との会話でも登場します。

「みたところ君もなかなか頑固そうな男だな」と彼は言った。
「頑固ではないです。僕には僕なりの考え方のシステムというものがあるだけです」
「システム」と彼は言った。そしてまた耳たぶを指でいじった。「もうそういうものはあまり意味を持たないんだよ。手作りの真空管アンプと同じだ。手間暇かけてそんなもの作るよりはオーディオ・ショップに行って新品のトランジスタ・アンプを買った方が安いし、音だって良いんだ。壊れたらすぐ修理に来てくれる。新品を買う時には下取りだってしてくれる。考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない。そういうものが価値を持っていた時代もたしかにあった。でも今は違う。何でも金で買える。考え方だってそうだ。適当なのを買ってきてつなげればいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。AをBに差し込めばいいんだ。あっという間にできる。古くなったら取り替えりゃいい。その方が便利だ。システムなんてことにこだわってると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
「高度資本主義社会」と僕は要約した。
「そうだ」と牧村拓は言った。

『ダンスダンスダンス(上)』P369

また、上の会話で出てくる「僕には僕なりの考え方のシステムというものがあるだけです」という「考え方のシステム」ですが、これもまたこの小説における面白い部分でもあります。

「僕」の考え方のシステム

まずは前述の雪かき仕事に対してのアプローチと考え方についてです。少し長いですが、文化的な仕事に対しては共通して大事なことだと思いますので、フルで引用してみます。

僕はタクシーを二日借りきって、カメラマンと二人で雪の降り積もった函館の食べ物やを片っ端からまわっていった。
僕の取材はシステマチックで効率の良いものだった。この手の取材でいちばん大事なことは下調べと綿密な種ケジュールの設定である。それが全てと言ってもいい。僕は取材前に徹底的に資料を集める。僕のような仕事をしている人間のために様々な調査をしてくれる組織がある。会員になって年会費を納めれば、たいていのことは調べてくれる。たとえば函館の食べ物屋についての資料をほしいといえば、かなりの量を集めてくれる。大型のコンピュータを使って情報の迷宮の中から効果的に必要な物をかきあつめてくるわけだ。そしてコピーをとって、きちんとファイルして、届けてくれる。もちろんそれなりの金はかかるが、時間と手間を金で買うのだと思えば決して高い金額ではない。
それとは別に、僕は自分の足を使って歩きまわり、独自の情報も集める。旅行関係の資料を集めた専門図書館もあるし、地方新聞・出版物を集めている図書館もある。そういう資料を全部集めれば相当な量になる。その中から物になりそうな店をピックアッブする。それぞれの店に前もって電話をかけて、営業時間と定休日をチェックする。これだけ済ませておけば、現地に行ってからの時間が相当節約される。ノートに線を引いて一日の予定表を組む。地図を見て、動くルートを書き込む。不確定要素は最小限に押さえる。
現地についてから、カメラマンと二人で店を順番に回っていく。全部で約三十店。もちろんほんの少し食べてあとはあっさり残す。味を見るだけだ。消費の洗練化。この段階では我々は取材であることを隠している。写真も写さない。店を出てから、カメラマンと僕とで味について討議し、十点満点で評価する。良ければ残すし、悪ければ落とす。だいたい半分以上を落とす見当でやる。そしてそれと平行して、地元のミニコミ誌と接触してリストからこぼれている店を五つばかり推薦してもらう。ここも回る。選ぶ。そして最終的な選択が終わるとそれぞれの店に電話をかけ、雑誌の名前を言って、取材と写真撮影を申し込む。これだけを二日で済ませる。夜のうちに僕はホテルの部屋で大体の原稿を書いてしまう。
翌日はカメラマンが料理の写真を手早く写し、その間に僕が店主に話を聞く。手短に。全ては三日で片付く。もちろんもっと早くすませてしまう同業者もいる。でも彼らは何も調ベない。適当に有名店を選んで回るだけだ。中には何も食べないで原稿を書く人間だっている。書こうと思えば書けるのだ、ちゃんと。率直に言って、この種の取材を僕みたいに丁寧にやる人間はそれほどはいないだろうと思う。真面目にやれば本当に骨の折れる仕事だし、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事なのだ。そして真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。
僕は別に自慢したくてこういう説明をしているわけではない。
僕はただ僕の仕事の概要のようなものを理解してほしいだけなのだ。僕の関わっている消耗がどのような種類の消耗であるかというようなことを。

『ダンスダンスダンス(上)』P47

最後のほうに出てくる「真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。」という部分が、少し前で引用した牧村拓が言っている「考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない」ということなんでしょうね。考え方の違いというやつですね。

世の中には誤解というものは存在しない。考え方の違いがあるだけだ。、それが僕の考え方だ。

『ダンスダンスダンス(上)』P24

「僕」は自分についての分析もいくつかの場面でしています。

僕は変わった人間なんかじゃない。
本当にそう思う。
僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、とても自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にしない。他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。

『ダンスダンスダンス(上)』P23

「僕は悪い人間じゃない。あまり人には好かれないけれど、人の嫌がることはしない。」

『ダンスダンスダンス(上)』P82

小説だから良いですが、なかなか実際にいたらと思うと・・・苦笑。

また、「僕」は自分なりのルールがいくつかあり、これはなかなか勉強になります。

気がつくと無力感が静かに音もなく、水のように部屋に満ちていた。僕はその無力感をかきわけるようにして浴室に行き、『レッド・クレイ』を口笛で吹きながらシャワーを浴び、台所に立って缶ビールを飲んだ。そして目を閉じてスベイン語で一から十まで数え、声を出して「おしまい」と言って、手をぱんと叩いた。それで無力感は風に吹き飛ばされるようにさっと消えた。これが僕のおまじないなのだ。一人で暮らす人間は知らず知らずいろんな能力を身につけるようになる。そうしないことには生き残っていけないのだ。

『ダンスダンスダンス(下)』P20

このおまじないは少し前に、下の記事で書いた「アクション・トリガー」というものですね。こういう形で出てきてとても考えがシンクロしました。

やる気が出ない正体と対処法~集中力の回復とアクション・トリガーの設定~
やる気が出ない正体と対処法~集中力の回復とアクション・トリガーの設定~
こんな記事を読みました。 これはとても色々な場面で応用できる話だなと思いまして、要約も兼ねて自分でもまとめてみます。 ...

また、何かの目的を果たす場合の行動のとり方についても面白い表現があります。

僕はそれについてしばらく考えてみた。そして何かきっと上手い方法があるはずだと思った。意志のあるところに方法は生じるものなのだ。十分で僕はその方法に思いあたった。上手くいくかどうかはともかく、やってみる価値はある。

『ダンスダンスダンス(下)』P47

「意志のあるところに方法は生じる」とても勇気づけられる言葉です。

また、一方で手詰まりになった時には「じっと待つ」姿勢の重要さも語っています。

何かがやってくるのを待てばいいのだ。いつもそうだった。手詰まりになったときには、慌てて動く必要はない。じっと待っていれば、何かが起こる。何かがやってくる。じっと目をこらして、薄明の中で何かが動き始めるのを待っていればいいのだ。僕は経験からそれを学んだ。それはいつか必ず動くのだ。もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。よろしい、ゆっくり待とう。

『ダンスダンスダンス(下)』P187

この辺りのバランス感覚も重要だなと思います。

この『ダンスダンスダンス』では、ユキという13歳の少女が登場します。34歳の「僕」は彼女と友達になり、色々なことも教えていくわけですが、そこにも「僕」の考え方のシステムは登場します。

「あの人、私にお金渡せばそれでいいと思ってんのよ」と彼女は言った。「馬鹿みたい。だから今日は私が御馳走してあげるわよ。私たち対等なんでしょ、ある意味では?いつも御馳走されてばかりだから、たまにはいいじゃない」
「御馳走さま」と僕は言った。「でも後学のために一応言うなら、そういうのはクラシックなデートのマナーには反してる」
「そうかしら?」
「デートで御飯を食べたあとで、女の子は自分で勘定書をつかんでレジで金を払ったりしちゃいけない。男にまず払わせて、あとで返す。それが世間のマナーなんだ。男としてのプライドを傷つける。僕はもちろん傷つかない。僕はどのような観点から見てもマッチョな人間じゃないから。でも僕はいいけど、気にする男も世間にはけっこう沢山いる。世界はまだまマッチョなんだ。」
「馬鹿みたい」と彼女は言った。「私、そういう男とデートなんかしないもの」

『ダンスダンスダンス(下)』P12

ああ、分かりますこれ。そして、「でも僕はいいけど、気にする男も世間にはけっこう沢山いる。」というこの部分も重要ですよね。「そういうのを気にするやつだっているんだよ」というのはあらゆる事においても気を付けないといけないことだと思ってます。仕事でも本質でない本当に変なところを気にする人っていますからね・・・。

次は死者に対しての考え方です。

「不公平なのね」
「原理的に人生というのは不公平なんだ」と僕は言った。
「でも自分がひどいことをしたような気がする」
「ディプク・ノースに対して?」
「そう」
僕は溜め息をついて車を道ばたに停め、キーを回してエンジンを切った。そ してハンドルから手を放して彼女の顔を見た。
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」と僕は言った。「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」
ユキは目を細めて僕の顔を見た。
「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」。

『ダンスダンスダンス(下)』P210

「後悔するくらいならはじめからきちんと公平に接しておく」分かってはいるけれども難しいことですね。

まとめ

久々に読んだ『ダンスダンスダンス』ですが、思っていた通りとても楽しめました。カタルシスを得ることができました。

自分も含めて、人間だれしもこの高度資本主義社会においては、雪かきのような仕事をしている(そうでないと大恐慌がおこってしまう)わけですが、そこに自分なりのシステムを築いてうまく泳いでいくことの重要性を感じました。

僕は「僕」や五反田君と同じ34歳、特に意識せずこのタイミングでこの小説を読み返すことができて良かったです。



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